先日、読者の方からメールを頂きました。
それで;
ホンコンさんの写真は、あまりメッセージ性を強く出さないところが「個性」だなぁ、と感じています。「キレイでしょ」「かっこいいでしょ」という良くも悪くも作者のエゴが薄いと思います。
とのご指摘と言いますか、ご意見を頂きました。
まさにその通り!
私の作風というか芸風に関して「初めて」説明すると、普段メインで撮っているスナップ写真は基本的に「抽象的&客観的」に撮っています。なので人物が入っていないことが多かったり、あと目線は外れていたり、後ろ姿が多いと思う。
これは元々ストックフォト会社の営業やっていたからというのもあるのだが、「個人が特定できる写真はトラブルの元」と育った影響。ただ、そうした作風を変えなかったのはたまたま感性が反応して撮っただけで、そういう視点が染みついてしまったからそのままにしている。それに写真は見る人の感性に委ねるものだと思っている。撮り手の私が「どうだ~!」みたいなこと言うよりも被写体を見て、それを活かせているか、みたいなニュアンスで見てもらえればいいかと。
被写体、すなわち「素材」ありき。
旨い寿司屋で自慢げに語る店主がいるが、それは漁師さんが凄いのであってその店主ではないという理屈と一緒。そして偉いのは「素材」。なのでその寿司屋の店主を誉めるなら素材の持ち味を最大限に引き出したこと、もしくは選んだことを誉めるべきで、かつリーズナブルな値段で出している場合に限る(※高くて旨いの自慢されても仕方ない)。
それに素材に依存する寿司屋は多いけど江戸前寿司では100%ありえない。江戸前の寿司は「一手間かける」ことが粋であり、そういう哲学に共感している部分もある。
なので私も江戸前の寿司屋さんと似たような心境。あくまで「素材を活かす」のであって「誇張」したり「そのまま出す」ことは私の役目ではない。そのバランスでいつも葛藤している。
「誇張」と書いたが誇張させようとするのは簡単なのよ。今なら被災地行って撮れば簡単に「それっぽい写真」は撮れる。一眼デジカメでちょっとズームしたら撮れる。あんなの写真学校の学生でも撮れる。それを金に換える奴らが少なからずいることは知っているが、私は無理。
そもそも同じ民族で、言葉も通じる相手が悲しい思いをしている光景を撮るのは生理的に受け付けない。仮に行ってもやはり私も人間なので撮りたい欲求が生まれるし、撮ったらそういう輩と同じになる。だから行かない。私は聖人君子じゃないが潔さというか、清さというか、小手先に頼りたくはない。
それで総括すると、恐らく私は写真を通して「誰かの代わり」ならできると思う。伝えたいものを伝えるお手伝い、誰かの代わりに伝えることはできる。そのために知恵を出すことは惜しまない。
広角単焦点で撮るというのはそこいらの一眼ズームを使っている連中とは「気合いと哲学」が比較にならんのよ。
なのでフォトジェニックな場所で「俺はスゲーだろ!」みたいな空気で撮ってる奴を見ると「どっかで見たことあるような同じような写真ばっか撮ってんじゃねーよ。」といつも思っている。だいたい撮り方見ていればどんな感性でどんなものが撮れるかおおかた想像は付く。
そもそも誰しもが撮っているような場所なんて、もう撮られすぎて擦り切れている。上手く撮れてもそれは己の実力ではなくて被写体の力だよ、と言いたい。それが悪いことではない。ただスタンスの問題。
それにそういうフォトジェニックな場所というのは「撮る位置」が決まっていることが多い。敢えてそうい場所でそれっぽい写真を撮ることはあるが、そういう場合は自嘲気味に撮っていることが多い。
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と、普段写真では出さない「私のエゴ」を活字で出してみました♪

